やまいびと

ある闘病当事者・機能不全家庭出身者のブログ ~生きにくい人生を送ってきた私から、生きにくさを抱えたあなたへ~

世の中、「体力はひとそれぞれ」という当たり前の事実に気付かない人が多いよね

人それぞれ、体力が違うのは当たり前

私は、知人の飼い犬から生まれた仔犬達が育っていくさまを近くで見守った経験があります。

同じ親のもとに生まれて同じエサを食べて育っても、小さく生まれついた仔は兄弟犬と比べて成長も遅く、成犬になってからも病気がちで体力もなく、早くに死んでしまった。

・・・当たり前なんですよね。
それぞれ、顔も体格も性格も違うように、体力だって違う

犬を見ていたら当たり前の事実なのに、ことヒトの話になると急に、「体力は皆同じ」前提で話が進んでいくのは、不思議なことです。

「体力の問題」はしばしば「精神の問題」にすり替えられてしまう

世の中には、身体が弱く生まれついたり持病があるために学校に毎日通ったり、フルタイムで働くのが辛い人がいます。

でも、日本はミンナトイッショに学校に通い、ミンナトイッショの時間だけ働けることが前提となっており、しばしば「体力の問題」が「精神の問題」にすり替えられるために

毎日登校するのが辛い子は「学校に行きたくない子」とみなされる。
フルタイムで働くのが辛い人は「辛いのは皆一緒」と発破をかけられる

「体力は人それぞれ」という当たり前の事実に気付かないために、「そんなに疲れるのは運動不足で体力が無いからよ」と、既に仕事や学業だけでもオーバーワーク状態に陥っている人達に運動まで勧めてくる人が、少なくないです。

冒頭に書いた兄弟犬。
犬なので、飼い主が同じなら同じエサを食べ、同じタイミングで散歩にも連れていってもらえる。それでも体力は同じにはならない。
そして、兄弟犬を実際に見た経験はなくても、「犬」で想像してもらえば、「そりゃそうだろうな」と思いません?

実際に、幼少期は虚弱だったけれど運動部に入ったことでメキメキ健康になった、といった経験を持つ人なんかもいるのですが、発達が遅かったから虚弱に見えただけの子もいるし、運動という刺激を受けることで健康が増すだけのキャパシティを持った身体だった、ということだと思います。

体力の有無で人生は大きく変わってしまう

さて、その体力に恵まれなかった人達ですが。

ハッキリと病名がつけば、「病人」というある種の「特別」枠に入れてもらえて、特別な働き方などを認めてもらえることも多いですが、あくまで「劣った人間」として「普通であることを免除される」ために、たとえば勤務中はフルタイムワーカーと同じ成果を上げてもなお、フルタイムワーカーより格段に安い時給を提示されるなど、さまざまな不利益や屈辱的な思いをさせられることは多いです。

病名がつかないが虚弱、という人に至っては、フルタイムで働くよう圧力をかけられたり「甘え・怠け」の大合唱で、無理を続けた結果、本当に病気になってしまう人もいます。

そこまで極端に虚弱ではないが体力がない人達は「普通」の枠内には収まれても、日々がいっぱいいっぱいで、平均的な体力の人達がアフターファイブを謳歌するのを横目に、「働いて寝る」だけの生活になってしまいがちです。
逆に、アクティブな人は性格が明るくて積極的だから色々なことにチャレンジするのだ、とみなされがちで、もちろんその側面もあるのでしょうが元々の体力があるからアクティブになれるという側面は見落とされがちです。

体力がない人間としては、この当たり前の事実が前提である社会になってほしいと切に願っています。

社会は中々変わらないけれど

残念ながら、社会はそうすぐには変わりませんが、個人レベルで体力がない自覚があるかは非常に重要だと思います。

なにしろ、生まれつき体力が無い人は、体力がある人生を知らない

本当は体力が無い子は、体力がある他の子達と同じ行動を取るために、人一倍しんどい思いを押し殺して頑張ってきたはずなのですが、幼少期から「甘えるな、怠けるな、皆辛いのに頑張っているんだ」と叱られて育ったために「周りの子達はもっと頑張っているんだ」と誤解していたりします。
他の子達が履いている体力というゲタを、自分だけ履かされていないことには気付きにくい。

だから、自覚することが大事なのです。

自覚することで、徹夜では遊ばないとか体育会系の部活は避けるとか、自衛をすることができるようになる。

自覚することで、適切に仕事を選ぶこともできるようになってきます。

人生の選択肢は狭まってはしまうのですが、今は多様性が重視されていたり、リモートワークなども可能だったり、一部企業では週休3日制が導入されたりしている時代ですから、「ミンナトイッショ」ではなくても自立して自分らしく生きていくことは可能で、それは

体力を無視して無理な仕事や部活を選んで、身体を壊してしまうよりはずっとマシです。

・・・周りの子達は自分より体力があった事実に気付かなかった。
それは私自身のことです。

私自身も、思い返せば発病前・・・幼少期から、体力のない子でした。
・・・無理をして健康を失う前に、気付きたかったなあ・・・。

搾取されやすい人

私は一応食事は与えられ学費も払ってもらえたが、精神的には「搾取子」「放置子」の位置づけにいた。

私が私でいるだけでは認められなかった。
私が良い成績を取っても、一向に親の関心を引けなかった。

家族の役に立った時だけ、次の手伝いを期待した毒母からわざとらしく褒められた。

家族旅行にも連れては行ってもらえたが、そういった楽しみの場でも毒親や愛玩子だったきょうだいの意向ばかりが優先され、私の希望は常に無視された。
私の意見など、最初から無かったもののように扱われた。
私が折れて自分の希望を引っ込めた時だけ、褒められた

その家庭環境の中で私は
自分は無価値で、誰かの役に立つことだけが、自分に「価値」をもたらすのだと学習して育った。

そうやって私は搾取されやすい大人になったのだと思う。

承認欲求というのは、誰もが持っているものだと思うが
私は承認を渇望し、その手段は誰かの役に立つことだと信じ切って相手に尽くしてきた。
そういう行動を取っていると、誰かを都合よく使ってやりたいと考える人達が寄ってくる。

他人を利用したい他人やブラック企業で理不尽な要求をされても、断れない。
断って「コイツ使えない」と思われた瞬間に、「無価値な私」に戻ってしまうからだ。

私は病気療養の過程で何年か無職となった。
無職となったら誰だって居心地が悪いと思うが、その思いも人一倍強いのだと思う。
苦しくてたまらなかった。

今も、私と同じ位の体調の人の大半は、働いていないと思う。
幸運にも在宅で働けるツテに巡り合えたから働けている、というのもあるが、「30分働いて1時間休んで、座っていられないならベッドに資料を持ち込んで、それでも働く」そこまでして働きたい人は、そんなに多くないのではないか。

仕事をして(=誰かの役に立って)いない限り、無価値だからだ。

でもそろそろ・・・「たとえ誰からも必要とされなくても、私は私だ」「誰かの役に立つことより、自分が心穏やかに過ごすことの方が大事」と開き直っても・・・自分くらいは、自分を認めてあげてもいいのかもしれないね・・・。

 

理解してくれなくてもいいけれど、出来ないものは出来ないのです

病気になってから、「理解されない」ことが苦しくて苦しくてしかたなかった。

 

言葉どおり「寝たきり」となる重症度のうつ病、そして慢性疲労症候群

人生が破壊される病気。

発病当時は20代で、同年代の友人らは疲れ知らずに仕事、恋愛、結婚、出産、そして趣味や遊びに邁進している時期だったからなおさら、「病気」になれば「やる気」とか「根性」といったものとは無関係に身体が動かなくなるということは理解されなかった。

うつ病という、偏見も多く話しにくい事実を告白して理解を求めても、周りは勝手に「思春期の悩みをこじらせてしまった人」程度にみなして「言い訳していないで働きなよ」とか「気晴らしに旅行にでも行かない?」と言ってくる

癌その他の疾患を抱えて働いている知人や著書「五体不満足」で有名になった乙武洋匡氏などを引き合いに出して「○○でも前向きに生きて働いている人もいるのに、あなたは・・・」等と言われたこともある。

一見健康そうに見えるのに、身体は思うように動かなくなる病気があることは、中々理解されない

(目に見える障害がある方は、実際にはできる事もたくさんあるのに「何もできない人」とみなされてしまうという別の悩みがあるらしいが、それはまた別の機会に。)

 

物凄い絶望だった。でもある時、気付いた。

 

理解される必要って、あるの?
「理解してくれなくてもいいけれど、出来ないものは出来ないのです」それでよくない?

 

病気なんて、なった者にしか分からない。
闘病仲間もいるのだけれど、病人同士ですら病歴や重症度、回復が見込める病気なのかどうか、制度と繋がれているかや支援してくれる家族の有無などで困難は全く違ってくる。

 

旅行に誘われたとする。
「旅行に行ける体調じゃないから」と断ったとする。
・・・まあ、実際には言葉を選んだりどこまで話すかを迷ったりはしながら断るわけだけど

「病気だから」という点は理解されなくてもいい
「旅行にはいかない」という点だけ理解されればいいし、縛られて引きずられていくわけではないのだから、何を言われても行かなければいいだけの話

・・・寂しい話だけど。
ただ、そう割り切ってしまってからの方が、妙に話がこじれることも少なくなったように思う。

「自分では経験したことのない病気を理解する」というのは、物凄く難しい。
「旅行の誘いへの返事は、NOです」という結論の方が、よほど分かりやすいからかなと思う。
不本意そうな顔を返されることもあるけれど、「この人は自分がどう説得しても旅行には行かないんだな」ということが伝われば、そこでその話は終わる。別の楽しい話題に切り替わっていく。

・・・寂しい話だけど。

でも多分、病気ではなくても、人は色々な事情を抱えてる。
「理解されない」という思いは殆どの人が抱えて生きているんじゃないかな、と最近では思う。

服を買うたびに嫌な気分に襲われていた

私は、服を買った後、物凄く嫌な気分になるのが常でした。

安い服を買ったら「こんな安っぽい服を着ていたらバカにされるのではないか」
高い服を買ったら「こんな高い服は私には不釣り合いなのではないか。セレブ気取りと思われないか」
二つの服で迷って一方を買ったら「もう一方が正解だったのではないか」
ならば、と両方買ったら「散財してしまった」

ショッピングなんて楽しいのが相場なのに、私は何を買っても買わなくても、嫌な気分・不安な気分になる。

分かっています。
現実には、私がどんな服を着ていても、気にする人は殆どいません。

アパレル関係で勤めている人や服飾に興味がある人はある程度分かるのかもしれませんが、私自身は服の良しあしは殆ど分かりません。
相手が着ている服で人を品定めする人、マウントを取りたがる人がいる事は知っていますが、そんな人と同じ土俵に乗る必要もないとも考えています。

 

なのに、服を買うたびに不安になる。

 

・・・毒母の言葉を内在化していたようです。
私がやる事なすこと否定してきて、特に私の容姿や、私が女性らしい服を着る事を周到にけなす人でした。

お母さんは美人ねってチヤホヤされたものなのに、あなたは・・・」が口癖の人でした。

 

親元で暮らしていた頃は、年齢不相応な地味地味な服を着ていました。

一人暮らしを始めて好きな服を買っても誰からもけなされない状況を手に入れても、刷り込まれた呪いは中々消えないし
困ったことに、こういう親に育てられると、成人する頃には自分はどんな服が好きなのかも分からなくなってしまっている
店員さんに見立ててもらっても、違和感しか感じなかったり。

それでも、不安の正体が何かに気付けた時から少しずつ凍っていた時間が動き出して、服を買うたびに「どれが欲しいか」服を着るたびに「今日はどれを着たい気分なのか:を自分の心に聞くことを繰り返してきて

今では大分、「自分らしい」服を買えるようになってきたように思います。