「まあいっか」が自己肯定感の正体なのかもと思う
社会的には成功していたけれど、苦しかった日々
たどりついた「平穏」の境地
毒親育ちの私が、新しい上司に異様な不安を感じていた理由
最近職場で異動があって、長年上司だった人が他の人に交代した。
・・・職場に新しい人が来たら、ましてやそれが上司だったら、ワクワクもドキドキもするのが人の常だと思うし、その上司の性格や方針、指示の出し方が分からない内は、相手の反応を探ったり戸惑ったりすることも多いものだとは思うけれど
私は、明らかに情緒不安定になっていた。
大した事ないメール一通送るにも、ああ書いたらいいか、こう書いた方がいいかと、パソコンとにらめっこしたまま延々送れなかったり。
打ち合わせがある時など、ひどい不安や焦燥に駆られていた。
そしてつい昨日。やっと気付いた。
私は、上司という「指示を仰ぐ立場、自分の評価を決める立場」にいる「成人男性」に、父親への恐怖を重ねていたのだと。
父親は、暴力暴言当たり前、「出ていけ」と怒鳴りつけることも当たり前の男だった。
あの男の「勉強を見てやる」は、教えるスキルなと何も待ち合わせぬまま隣に座って、ミスするたびに罵りながら小突いてくることを意味した。
少しのミスでも、全人格を否定する勢いでけなしてきて、「お前は駄目だ」と突き放してきた。
私は絶対にミスをしてはならなかったし、何もミスをしていなくてもなお予測不可能な事で急に激怒し始める父親の前で、常に怯えながら生きるしかなかった。
哺乳類の子供にとって、親から見捨てられることは死を意味する。
実際には、日本社会には福祉の制度があるから、親から捨てられても命までは取られないのだけど、それは理屈であって、哺乳類としての本能は、ずっとずっと死の影におびえてきた。
私の本能は、「指示をあおぐべき人」「自分の評価を付ける人」という、父親と似た立場と同じ性別のその上司を前にして、私の本能は「生き延びるために」その男は危険だ、死ぬ気でその男の機嫌を取れと、警告を発し続けていたのだ。
気が付いたら、少し恐怖がおさまった。
アダルトチャイルドの不安は、その理由がわかると、少しおさまる。
実際の上司は、父親とは別の人間だし、不機嫌や怒気で人を支配するタイプの人ではない。
・・・上司自身だって新しい部署で新しい仕事に取り組んでいく上で、元いたスタッフを敵に回したくないと思っているだろうし
人と人の関係にはどうしても相性というものがあるから、その上司の元では働きにくくなる、ということはあり得ることではあるけれど
「こいつ気に入らないからクビにしてやる」と思われるほど相性の悪い相手なら、私がどんなに怯えて機嫌を取っても同じ結果になるだろう。
私はもう大人だから、その上司に見捨てられたとしても、生き死にには関わらない。
そうなったらただ、別の道を探すだけだ。
それにしても。
あの男と絶縁して一切の連絡を絶ってから、もうすぐ15年だよ?!
毒親という存在は、いつまで子の人生を苦しめ歪めるのか・・・。
毒親育ちは、つい限界近くまで頼まれごとを引き受けてしまう。それを卒業しようと思ったお話。
私は頼み事をゴリ押ししてくる人によく遭遇する
最近、私はグループでやる企画を手伝う立場にいるのだけれど
大体の担当は決まったが、いくつか担当者が未定のままの業務がある、という状況で、企画の発起人が「とわさん、この業務も引き受けてもらえませんか?」とやたらと頼んでくるようになった。
その企画発起人は、他の人に打診しても「できません」と言われたら一度で引き下がっているのに、なぜか私には、断ってもまた頼んでくる。
多分、私に頼めば、やってもらえると思っているからだろう。
でも待って。
私は既に「あれ?もしかしたら、企画発起人より『手伝い』のはずの私の方が忙しいんじゃね?」と感じなくもない状況になりつつある。
また、その企画発起人に、私は「〆切近くになってから頼まれても対応できないから、担当する必要があるなら早めに業務の分担を決めてほしい」と口を酸っぱくして言っていたのに、ズルズルと引き延ばした挙句、〆切近くになって慌てて頼んできているという経緯もある。
さすがにこの状況で、私自身がこれ以上は出来ませんと断っているものを押し通される筋合いはない。
・・・筋合いはないのに、頼み事をゴリ押ししたがる人に、私は妙によく遭遇する。
相手が図々しい、という面があるのは勿論だけど
私の側にも、そういう言動を引き寄せる隙があるのだと思う。
同じ毒親育ちの方の参考になるかと、今回紐解いた「カラクリ」を、ここに書き残したい。
私は毒親育ちで、過剰適応者だ。
親が言うことを「断る」と、殴られるか蹴るか、経済的な報復をされるか・・・とても恐ろしい結果が待っていた。
そういう風に育った人間は「ギリッギリまで頑張ったら、なんとかできる、かな?」というレベルのことまでを「できます・やります」と引き受けるクセが刷り込まれてしまっている。
・・・のだけど。
健全育ちの人は「無理しなくても出来る範囲」のことまでしか引き受けないし、なんなら引き受けるだけの余裕があっても嫌なら断る、という事実に、最近やっと気付いた。
私は断ることに、物凄い罪悪感を感じる。
私は、頼まれごとを断ることに、ものすごい罪悪感を感じる。
罪悪感というより「恐怖」と言った方が近いかもしれない。
逆に、誰かの役に立てているかも、と感じている時には、ものすごい幸せ・・・というか、「ここにいて良いのだ」という感覚を得ることができる。
誰にとっても、自分が役に立つ人間だと感じることは喜びだと思うけれど、私のそれは度が過ぎていると感じる。
私は、家族のために働いて役に立った時だけ、親に褒められて育った。
私はきょうだいより成績が良かったが、一切褒められることはなかった。
それどころか、「あなたはコツコツ真面目にやるから上っ面の成績がいいだけ。本当に頭が良いのはきょうだいの方だから調子に乗るな」としつこく言い含められた。
趣味や習い事でも、私が何かを頑張っても賞を取っても、親は一切私に関心を払わなかった。
怪我や病気をしていても、気付かないフリをして放置された。
親の手伝いをしたり、親やきょうだいの役に立っている間だけ関心を向けてもらえ、「あなたは優しい」と褒められた。
当然のごとく、言いつけられたことにNOと言ったら激しい暴力が待っていた。
哺乳類の子にとって、親から嫌われたり親の関心を失い世話を放棄されることは死を意味する。
そのように育つと、人は「用事を言いつけられたらYESと言い、周りのために働くことだけが、自分の存在価値で、生き残る道だ」と本能に刷り込まれるのだろう。
健全な育ちの人は、頼み事をされた側には、断る権利がある事を知っているから、意に沿わない頼み事は堂々と・キッパリと断ってサッと話を切り上げる。
一部の毒親育ちは、無意識下で「断ったら、その人から決定的に嫌われる。そのコミュニティにも居られなくなる」という恐怖を感じる。
それで、つい無意識のうちに
- 他人の頼み事を限界まで引き受けてしまったり
- 一旦は断っても、依頼主が「困ったなあ」とやっているとつい前言を撤回して限界まで引き受けてしまったり
- 断っても、断る時の態度が妙に自信なさげだったり、言い訳がましかったり
という事をしがちになる・・・の、だと思う。
それが相手に、「もう少し強くお願いしたら、引き受けてもらえるのかも」と期待させてしまうのだと思った。
結果、今回に限らず、これまでの人生でも、他のチームメンバーや、頼んできた張本人までもが、プライベートを存分に謳歌しながら無理なく業務を進めている一方で、私だけが、他の用事をキャンセルし、休む暇もない状況で業務に追われる・・・というようなことが、たびたび起こってきた。
こういうの、もう卒業しよう。
人生の時間はそう多くない。
病弱な私は特に、数年後にはもう寝たきりになっていたり寿命を迎えていてもおかしくない。
「断れなかった」ただそれだけの理由で、私がやりたい訳でもない、ただ頼まれただけの用事で日々を潰すのは、もうやめよう。
足元が崩れ落ちそうなほどの恐怖を感じても、断るべきものは、ちゃんと断れる人になろうと思った。
YES、という前に、ひと呼吸置いて自分の状況と気持ちをまず考えよう。
私の方に引き受けても問題ないだけの心身のゆとりがあったり、引き受けることでハッピーになれる内容なら引き受けてもいいけれど、「役立たず」の烙印を押される恐怖から逃れるために引き受けるのは、もう卒業したい。
そう思った。
抱きしめられた記憶
わたし、親からギュッと抱きしめられた記憶がないんだよね。
愛しそうな目で見守られた記憶がない。
人は、犬猫でもぬいぐるみでも、「可愛い」「いとしい」と感じたら、抱きしめたくなるものなのに。
確かに、私は親から20年間食事を与えられ続けたから生きて成人したのだけど、それは親にとって、「義務」に過ぎなかったんだなあと、しみじみ思う。
そういう記憶があると無いとでは
大人になった後、逆境に陥った時に差がつくように思う。
心を強く持っていられるかが違ってくるように思う。
逆境で、周りの人達が皆、自分を雑に扱い始めた時にも「いや、自分はそんな風に扱われていい人間ではない」と立ち向かえるかが、違ってくるように思う。